彼のあんな顔を、私は初めて見た。

今までに交わした逢瀬でも見たことの無いほどに、幸福に満ちた彼の顔。

そんな彼の姿が、あまりにも切なくて…哀しくて。

こんな日が来ることは解っていたはずなのに。



彼が愛おしすぎて、苦しくて。



もしも願いが叶うなら、もう一度あの音色を聴きたい。

もう一度、あなたに逢いたい。










時空(とき)の音色 −前編−










『やはり、貴女が源氏の神子…なのか』






戦場で再会した、愛しい人。

互いの立場を、薄々感じ取っていたのかもしれない。

驚きは互いに無かった。



何度も重ねた逢瀬。

奏でられる琵琶の音色に、望美は彼の真意を見た。

争いを嫌い、平和を望み    

優しく澄んだ音色は、彼の心を表しているようで。

そんな彼に逢うことを、望美はいつしか心待ちにするようになっていた。






「経正、さん…」


逢いたい…と、望美がそう呟いた瞬間だった。


不意に胸元が突然暖かくなり、望美は懐に手を差し入れる。


「白龍の逆鱗…? どうして…」


逆鱗は眩い光を放ち、望美を包み込んだ。


まるで、炎の中から脱出したあの時のように     




















瞳を開けると、そこは見知らぬ風景だった。


どこかの一室のようで、灯燭の淡い光が辺りを照らしている。


「望美、殿…?」


どこか震えた、暖かい声。


それは、聴きたくて…逢いたくて仕方の無かった人。


ゆっくりと振り返ると、経正が驚いた瞳でこちらを見つめていた。


「どうしてここに…? いや、今の光は…白龍の力、なのか…」


「経正さん…」


彼に逢えたことが嬉しくて、でも胸が苦しくて仕方が無い。


思わず涙が出そうになる。


そんな望美に、経正はいつものように優しい笑みを向ける。


「そんな顔をなさらないでください。貴女には、笑顔が一番似合う」


「経正さん…」


泣いてしまいそうで、この想いの全てを吐き出してしまいそうで。


その全てを堪えながら、望美は笑顔を繕った。


「琵琶を…聴かせて頂けませんか? あなたの琵琶の音が聴きたいんです」






望美の願いを聴き、経正は静かに琵琶を奏で始めた。



優しく響く、琵琶の音色。

経正の奏でるこの音は、とても心地が好い。

幸福で、暖かいこの音色。

今はとても切なくて。



望美の瞳からは、堪えきれず涙が零れ始めた。



逢えば逢うほど、好きになる。

彼が平家の人間と知っても、想いは変わらない。

愛おしくて仕方が無い。






「望美殿…?」


気がつくと経正の声はとても近くで、望美はもう一度微笑んで見せた。


心を悟られたくなくて。


「あまりに綺麗な音色だったから…」


その瞬間、経正は望美に向けて手を差し出したが、
その手は望美に触れることなく空気を掴んだ。


「経正、さん…?」


「…すみません。私は…貴女に触れることは出来ない」


どこか悲しげに向けられる微笑み。


「私が…源氏の人間だからですか?」






「いいえ。貴女が…神子だから」






その言葉を聴いて、望美は一瞬だけ時間が止まったように感じた。


ドクン、と胸が大きく鼓動を打つ。






その先を聴きたくはない。

けれど、知らなくてはならない。






「…どうして…ですか…?」


声が震えてしまう。






「…私は、ヒトの身ではないから」






望美は、唇を噛み締める。






彼は、怨霊として甦った。

どうして    と訊きながら、
心のどこかで、その事を知っていた。

わかっていた。

けれど、認めたくは無かったのだ。



彼は、決して結ばれることの無い運命にいるということを。






「怨霊として甦った私は、きっと…貴女に害をなすことでしょう。
だから…」


望美はその言葉の続きを遮るように、経正の身体を抱き締めていた。


自分よりも大きなその背中はとても広くて、
望美は抱きつくようにその背に腕を回す。


「望美殿…」


「ちゃんと暖かい……暖かいよ…っ」」


その胸に顔を埋め、望美は肩をしゃくり上げる。


「…望美殿…」


ふわりと、経正の腕が望美の身体を包み込んだ。






その腕の温もりが優しくて…暖かくて、切なくて。

再び溢れ出した涙は止まらない。






「私は…貴女を泣かせてばかりいますね」


ぎゅっと、腕に力が込められる。






強くなりたいと願っていた。

大切な人を守るために。

京が炎に包まれたあの時のように、もう何も失いたくないと思った。

大切なものを失くしたくはないと、そう思っていた。

そのために、強さが欲しかった。






「…私…っ」


「貴女が神子で、良かった」


望美の言葉を遮るように、経正は呟いた。


「経正さ…」


瞬間、再びあの眩い光が望美の身体を包み込んだ。


「…っ、経正さんっ」


経正は、やはり微笑んでいた。


いつものように、優しい笑顔で。




















望美が瞳を開くと、そこは元いた京邸であった。


手に握られた逆鱗が、淡く光を放っている。


「私は…どうしたらいいの…?」


ぎゅっと、逆鱗を握り締める。






まだこの身体が、彼の温もりを覚えている。

夢ではない。



彼は怨霊で。

自分は神子で。



怨霊を救えるのは、神子だけ。

封印こそが、怨霊を救える唯一の方法。



望美は、御簾越しに見える月を静かに見上げていた。








後編 へ









↑お気に召しましたら、ポチっとお願いしますv